音楽評って・・・


 [人は先ずソリストになりたがる]
 [その夢が叶わなかったときはオーケストラに入ろうと試みる]
 [それが無理ならコンダクターになろうとする]
 [それでもダメなら評論家になる]

・・・と、昔から言われている。
ま、クラシックの話だがね。
タイトルに『桃色』だのと付けて
ちょこっと世の男性の性欲を刺激すればバカみたいに売れる現代とは感覚が違う。
だが、まあ、根本はこういうものだとご理解いただいたところで本題に入りたい。


何年もこんなコラムを書かせてもらいながらなんだが、
音楽評論というのはまったく気楽な商売だな、と最近つくづく思う。
特に「今年のミュージックシーンはこうなる」なんてのは競馬予想よりあてにならない。


2月5日、ラジオから流れてきたモーニング娘の新曲を聞いてみたが、
評論家はあれを聞いて「今年はパワフルな歌い方がくる」とでもしておけばいいのだろう。
これが売れてくれれば万々歳。売れなくても誰に責められるものでもない。
占いと同じで、受け取る側が曖昧に読み取ってくれるので
「これも言われてみればパワフルだな」なんて言ってくれる。
また、硬派な音楽誌の読者なんてのは
大抵、そこでうんちくを仕入れて知ったかぶりをしたがるものである。
それは逆に言えば、そこに書かれている事を鵜呑みにしてしまうタイプが多いということでもある。
書き手にとってこんな気楽なことはない。

「気楽」と言い切ってしまうと現場の人間が気分を害するかもしれない。
もちろん酷評が寄せられることもあるだろう。
だが、書く段階での気楽さは、他の書き物をする人間の比ではないだろう。
CD売り上げトトカルチョでもしない限り、どんな音楽シーンを予想しようが誰も損はしない。


もちろん、中には良心的な評論家もいる。
いや、「良心的」というのは変か。まあ、とにかく人となりがでている心地よい評論もある。
だが、私の目に入るものの中では微量である。
大抵は上で述べたようなものばかりだ。


「今日の一言」で以前述べたように、受け手がしっかりしなければ書き手は育たない。
受け手が流行に振り回されたり音楽評に頼ったりしているうちはその文化はまだまだだ。

まあ、
音楽評がどうでもよくなるくらい素晴らしい音楽が頻繁にリリースされればいいんだけどね・・・



文責:NAKIMI
2002年2月5日
最終更新:2002年2月9日