« 9月14日 秋葉原 DOS/Vパラダイスにて | メイン | 9月第3週、伊集院光のラジオを聞く »

2005年09月20日

"ホワイトバンド"論   [カテゴリ : Column002 ]

ホワイトバンドというものが世間を賑わせているらしい。
数百円の白いリストバンドで、それを身につけることによって人々のボランティア精神を養うのが目的なのだそうだ。

 先に言っておくが、私はホワイトバンドを買うつもりも無ければ反対運動に参加するつもりも無い。
 ただ思ったことを述べるまでだ。

これに反発する声は当初から少なくなかったようで、
実際に寄付金として使われるのは価格の10%にも満たないことから
「ホワイトバンド詐欺」などという言葉まで生まれてしまったようだ。
また、「世界の『とてつもない貧困』」を救おうという呼びかけに対しては
まず日本の貧困をどうにかすべきだろうという反論もある。

反対派の意見は、基本的に私が普段から述べている理屈と一緒だ。
私も、今の日本は大変に厳しい状況にあり、世界に目を向ける余裕は無いと考えている。

ただし、

それは「クニ」・・・つまり国家として考えた場合、という話だ。
(「クニ」や「ムラ」については過去記事を参照のこと)
クニには、ムラやヒトを守る義務がある。
ムラ社会が消滅しかけている現在の日本では、国家が個人を支援するというのが一番重要な点なのだ。

ホワイトバンド反対派の中には、
「国内に目を向けず、聞こえのいいアフリカの貧困にばかり目を向けるのは偽善だ」
と、言う人もいる。
そして、そのことに気付かずホワイトバンドを買う人を『信者』と呼ぶこともあるようだ。
しかし反対派の彼らは気付いていないのだ。
「偽善によって救われた命もまた命である」という事実に。
 (小泉純一郎が選挙期間中に川で溺れていた子供を助けたとしたらそれは半分美談で半分偽善だろう。
 だからと言って「助からなければよかったのに」などと言う人はいないはずだ。それと同じである)

これが国家のすることであれば、日本国民をまず一番に考えて、その次に他国の貧困を考えるべきだろう。
湯水のごとくODAを使う余裕があるのなら国内に目を向けてくれというのは私も常々思っていることだ。
しかし、民間の団体にはその『順番』を守る義務が無い。理由も無い。

誰も気付かなければ死んでしまう人がいる。
それは、逆に言えば、誰かが気付いてあげれば助かる命があるということなのだ。
日本人は情報に対して贅沢になってしまい、アフリカなどの窮状を聞いても慣れっこになってしまっている。
確かに「外国の貧困?・・・でも、日本の貧困を解決するのが先だろ!」という主張は正しい
しかしホワイトバンドの活動を見た後になって理屈を構築するのは愚かだ。
もちろん、誰が何を言おうが勝手だが、
「私は世間の風潮に流されない」と言いたいがための反論材料としてはあまりにも重くはないだろうか。
過程も結果も備えた完璧なボランティア論を語っている間にも失われる命がある。
それを無視して正義を気取っても空々しいとは思わないか。


よく言われる笑い話として、
「24時間テレビなんかやるくらいだったら最初からその制作費を寄付したらいい」
というものがある。
しかし、よく考えてみるとそれはちょっとおかしい。
わかりやすくスケールダウンしてみよう。
「コンビニでパンを買うくらいならそのお金を寄付しろ」と、誰かが言ったとする。
そうすると確かに100円也が貧しい国に届く。
しかし、それではパンを食べられなかった人は飢えるし、パンを売って生活していた人は生活が困難になる。
ならば、パンを買ったそのお金が生産者に届いてから10円でも20円でも寄付すれば皆が幸せになれるのではないか。
もちろんこれは単純化した話であり、実際はそんな簡単にはいかない。
ただ、こう考えると「24時間テレビなんか無駄」という意見はどうかと思ったわけだ。
 (無駄にタレントを走らせたり、体の不自由な方に泳いでもらったりして
 「さあ感動しろ」というその押し売り気質は私も嫌いだが、
 「番組など作らずに制作費を寄付しろ」という理屈は通らないのでは、という意味ね)

これが何を示しているかと言えば
「一見、遠回りで自分勝手にも見えるボランティアでも、長い目で見ればその方が良かったということがある」
ということだ。
いくら腹が減ったからと言って、種籾や種芋を食べさせてしまってはそこでお終いだ。
経済活動を行うことそのものがまわりまわって人の役に立つということもあるわけだ。
ボランティアにおいて、100%の善意が稀であるのと同じくらい、100%の偽善も稀なのである。


話をホワイトバンドに戻すと、
 「『芸能人がつけてるから』と、ファッション感覚で着用し、ボランティア本来の意味に気付かない若者も多い。
 そしてNGO団体はそんな連中も数に数えて『同意が得られた』とする。そこが腹立たしい。
 そういう連中は仮にボランティア精神に目覚めたとしても国内には目を向けないだろう」

という意見もあるようだ。
確かにそれはまったくもってその通り。私も「数字のマジックみたいなものだな」と思った。
完全にファッション主動でなくとも、ホワイトバンドをつけただけで貢献したつもりになる人はいるだろう。
「私はホワイトバンドをつけているのだから大丈夫」というような免罪符的な役割が無いとは言えない。
ただ、これに対しても違う見方はできる。
世の中の1%の人しか身につけていなければ免罪符だが、
世の中の50%の人が身につけていれば、残りの50%に対する圧力になる。
圧力と言えば聞こえは悪いが、
「まだ慈善意識が低いままなの?」という圧力は、同時に身につけている人間自身を律することにもつながるだろう。
これをして、「ホワイトバンドなんか無駄」「偽善の象徴」などと言えるだろうか?
・・・
このような可能性を秘めている以上、
反対するのは個人の自由だが、反対運動まで行うのはちょっと問題ではないだろうか。
意気揚揚とBlogに反対の意思を示すバナーなんか貼ってる人もいるようだけど、
「私は流行に流されない」「私は物事の裏を見抜くことができる」と言いたいだけに見えて、正直カッコ悪いですよ?

投稿者 nakimi : 2005年09月20日 01:27

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.nakimi.com/mt/mt-tb.cgi/576

コメント